INTERVIEW

support surface デザイナー 研壁宣男 インタビュー

ファッションは時代の気分を現し、そのときどきのメインストリームがある。同じ時代にいれば多かれ少なかれその渦に巻き込まれて生きていくことになるだろう。デザイナー達はその気配を感じながら、けれど自分を見失うことなく新たなデザインを創造していく。2015年からアマチュア部門の審査員をお願いしている“support surface”のデザイナー、研壁宣男さんのインタビューからは、時代の流れの中にいながらも、クリエイターとして存在しつづけるための知恵を知ることができる。

まず始めにファッションを学ぶために、桑沢デザイン研究所を選ばれた理由を教えて下さい。

高校生の頃、80年代の中盤くらいですが、DCブランドブームがあってデザインの中でもファッションデザインというのが脚光を浴びかけた時代でした。
若い人がなりたい職業の中でもファッションデザイナーが花形職業の一つとして台頭してきたタイミングで、ファッションデザインが輝いて見えたんですね。通っていたのは普通高校だったのですが、一年生の段階ですでに美術系に進学を決めていました。けれど美大の専攻の中にファッションデザインという学科が無かったわけです。洋裁を勉強するというよりは“デザインの中の服”という視点を学びたかったので、いわゆる歴史のある洋裁系の学校を選ぶのはどこか違うなと思って。
結果としてデザイン系の学校でありながらファッションを学べる桑沢デザイン研究所を選びました。当時、僕が憧れていたクリエイターとかデザイナーの人に桑沢出身が多かったというのもあります。

ファッションがデザインの中の一部であるという考えかたは海外では常識ですが、日本ではやっと最近注目されだしたことだと思います。研壁さんは早い段階でそのことに気づいていたということですね。そうして桑沢に進学して、1年生の終わりにはもうファッション大賞のアマチュア部門で入賞を果たしていますね。今日は当時のデザイン画をお持ちしました。ご覧になっていかがですか?

当時は欧米からの応募者も多かったですし審査員も海外から招かれたりしていましたから、デザイン画の応募数も多くて。確か何万点といった数だったと記憶しています。その倍率からして入賞できるなんて思っていなかったんですよ。しかもまだ入学して丸1年もたっていない時期なので、パターンのパの字が分かりかけたくらい。縫うなんてことは、結構嫌いっていうか(笑)。とにかくそんなところまでいってないんです、レベルが。だから一次審査通過の報告を受けたときは、はっきり言ってどうしていいのか分からなかった。「通ってしまった!どうしよう!」という感じ。
今あらためてデザイン画を見ると、インパクトのある絵にするためにデザインと関係ない部分にシャドウをつけてドラマティックに表現したりしていますね。まだ全然デザインが何かなんて分かっていない時期でしたから、どうしたら絵をうまく見せることができるかといったことに力を入れているように思います。懐かしいですね。


応募したデザイン画。別紙に書かれたデザイン解説を読んで「今と同じこと言っているなぁ」。

作品作りはどんな感じだったのですか?

とにかく一次審査に通過したからには作品を作らなければいけない。素材は白のウール地を使ったんです。でも慣れていないものですから仕上がったものは、極端な話をすると“手垢で汚れている”といった風情で(笑)。真っ白な素材なのだから、本来はケアをしながら作業しないといけないのですが、そんなことも気づかず、縫い間違いはあるし。作品は試行錯誤の跡が伺える、ちょっと恥ずかしいけれど“心と手の汗”がついたものでした。


インタビューはアトリエにて行われた。

審査会では作品をモデルが着て、ショー形式で発表されたり、初めてづくしですよね。

当時は公開審査会で即決定する方法だったので、本番はどきどきしましたね。
ランウェイに作品を着たモデルがどんどん出てくるのを見たときに、やっぱり抜群にオーラを放っている作品があるんですよ。案の定、賞を取るだろうなと思った作品が受賞しました。受賞作品が放つそのオーラとは一体なんなのだろうと考えましたね。
違う価値観や美意識を持った人達が見ているにもかかわらず、なぜ見ている人の多くがその作品を良いと思うのか? モデルがランウェイを歩いた瞬間に感じるあの雰囲気は、いったいどうしたら表現できるのだろう。このコンテストに参加したことで、良い意味で自分のレベルを思い知らされたと感じます。レベルの違いに打ちのめされたと同時に、自らを知るきっかけを得ました。だからこそ自分の可能性を鍛えたいと思いましたし、余白の部分を埋めていきたいと改めて目標ができたんです。そういう意味で自分にとってはすごく思い出深いコンテストでした。

そういった大切な気づきを得て、自分に足りない余白を埋めていく作業をしながら、続けてコンテストには挑戦されたのですか?

とても不思議なことですが一つ通ると、その後のコンテストにも続けて入賞していくんです。
他のコンテストの話になりますが、いいですか? その次にチャレンジしたのは繊研新聞が主催だった東京新人クリエーターズコレクションというコンテストで、応募したのは2年生の終わり頃でしたが「春物をウールで」というのがテーマでした。
IWS(国際羊毛事務局)が生地を提供してくれたのですが、“ウール=重厚、暖かい”という一般的常識から、春物にも十分対応出来る素材としての可能性をアピールするためのプロモーションも兼ねたコンテストだったのでしょうか。掲げられたテーマを頭に置いて、ウールジャージーでさらっと作ったんです。そんなこと言うととても自信あり気ですが、そうでもなくて、むしろ自分の作品が良いか悪いかなんて分からなかった。他の作品は、やはり素材がウールと限定されていたこともあり、結構重厚で見栄えのする作品も多かった用に思います。公開審査では下から順番に2位まで発表されて、ああまた今回もダメなんだろうなと思っていたら、次の大賞発表でなんと自分の名前が呼ばれたわけです。
自信も無かったし、本当にビックリしました。後で思うと重厚な作品の中で春物らしくさらっと制作したのが良かったのかな?と。
次に、ATF(アジア国際 ファッションデザイナーズコンテスト)でも金賞を取りました。そうして最終的にトライしたのが装苑賞だったんです。自分が希望する審査員にむけてデザイン画を提出するのですが、受かるデザイン画の傾向と対策というのがあるとしたら、その裏をかいたほうが逆に審査員の心に響くのではないかと思ったりして。それで装苑賞のトレンドとは全然違うものを出してみたんです。本審査の感触では結構いけるんじゃないかと思ったんですが、結果は佳作1位でした。その結果についてその後じっくりと考えましたね。装苑賞のテーマは「自分が着たい服、着せたい服」でしたが僕はそのテーマに沿っているものではなくて、コンテスト受けしそうなオブジェみたいなものを作ってしまったんです。オブジェとしてはいいんだけれど、「これ服なのかな?」と自分の中で疑問が生じてしまって。佳作1位は受賞したものの、そういう作品を作ってしまった自分に対して大きな疑問を感じて、これはしっかり考えないといけないことだと思いました。それ以来コンテストに応募するのをやめたんです。

卒業後はロメオ・ジリに会いにミラノに行かれて、結果的に一緒に仕事をすることになります。コンテストでの経験はその後の選択にも影響していたりしますか?

“support surface”の織りネームには“modern, authentic and alternative garments”という言葉を記しているのですが、中でも“オルタナティブ”という言葉は常に心にとめています。結局主流と言われるものについていったん疑問を持つことが、自分にとってはとても大切なことなのだと思って。なぜ皆がそれを良いと思うのか? それを超えるもっと良いものがあるのではないか? その疑問に向き合って、自分なりに解決策を見出して頑張る。ちょっとひねくれているかもしれませんが、それが自分のやり方なんですよね。


“modern, authentic and alternative garments”と書かれた織りネーム。

単純に主流に反発する事ではなく、いったん受け止めて違う側面から眺めてみて、そうして研壁さんのフィルターを通して新しい世界を築くということでしょうか。デザインを創造していくときには確かにものごとに巻き込まれすぎないで冷静に判断していく必要はありますよね。

今はあらゆるデザインが出尽くされ、流行も非常に多様化していて混沌とした時代だと思うのですが、今までなかった表現様式がリアルタイムで生み出されていた80年代から90年代はとても刺激的な時代でした。日本だけでなく海外も含めてファッションの世界全体もそんな尖った時代だったと思います。そんな中、彗星のごとく現れたのがロメオ・ジリ。当時注目を浴びていたパリコレの過剰演出のデザイナーの世界観とは全く空気感の違う彼の世界観はとてもリラックスしていて、ある種のストイックさを放つ存在でした。こんな服でファッションショーをしてもいいのだろうかと思うほどの演出の無さというか。でも実はみんな心のどこかで、そんな気分を望んでいたんですよね、きっと。他のデザイナーがやろうとしても誰もやらなかったことをロメオがさらりとやってしまった。女性の中のナチュラルな優しさを引き出す、控え目な美しい服。しかもそれがパリでなくてミラノ発だったというのが驚きでもあったわけです。ミラノはそれまでファッションの生産拠点としては注目されていたのですが、ファッションの新しいムーブメントが起こる場所としては特に注目されていなかったから。だから皆、非常に興味を持ったんですね。もちろん僕もその一人だったわけです。

ロメオ・ジリに入ったときのことをもう少し詳しく教えて下さい。

あまりにも人気者すぎて、すぐに会えるような存在ではなかったです。でも面接だけならなんとかセッティングできるよ、と言ってくださる方がいて。その方のおかげで嬉しいことに通訳付きで面接を受けました。
ちょうど発表の場をミラノからパリに移行するタイミングのときで、ロメオ本人には会えなかったのですが、共同経営者のカルラ・ソッツァーニさん(現・セレクトショップ“10 Corso Como”のオーナー)が会ってくれました。
その時の面接のために急ぎ作った服を10着くらい持っていきました。デザイン画ではなく、体で感じる重さみたいなものを使って口説きたかったので、服にして持っていけば、しかもわざわざ日本から来たと聞いたら先方も断れないだろう!なんて勝手に思ったりして。
カルラさんは作品を見て「まあ!いいわね!凄く好きよ」なんて言ってくれるのですが、続けて「ところであなたイタリア語できる?」「外国人スタッフもいっぱいいるけれど、作品が良くても言葉ができないと苦労するのはあなたよ!」って言うわけです。イタリア語はもちろん話せなかったので、正論ではあるけれど、困ったなと。実はイタリアには片道航空券で行っているからそうそう帰れないんですよ。わざと後戻りできない、逃げ道のない状況を作っておかないといけないと思って。
それでもせっかくだからと、パリで行われたロメオのショーの招待券を頂きました。パリにはジュンク堂(日本の書店)があるじゃないですか! それで『地球の歩き方』を立ち読みして現地の語学学校の情報を調べて、イタリアに戻ってから3か月くらい猛勉強しました。持って行ったお金もそろそろ底をつきそうだなと思った頃に再度カルラさんに電話したんです。「覚えてますか?」って。そうしたら「もちろんよ!」って。また調子がいいんですよ(笑)。「忘れるわけないじゃない!」「いいわよ、明日来なさい!」って感じで(笑)。ちょうどまたパリコレの前で、猫の手も欲しいくらいの忙しさだったんでしょうね。即決で採用してくれて、もちろんお給料ももらいましたよ。ただ当時はユーロではなくてリラだったからゼロの数が多くて、ものすごい金額に思えたのですが、日本円で12~13万円くらいでしたね。やっとミラノで生きていけると思いました。
その後、ロメオとカルラさんが喧嘩別れして会社が空中分解してしまったんですが、僕はカルラさんのほうに付いたんです。そこから“10 Corso Como”(ディエチ コルソ コモ)のオリジナルブランド“NNstudio”(no name studio)を任されました。コンセプト的にいうと日本の無印良品と似ていて、デザイナーの名前をかかげずに良いものを作りましょうという。メンズとレディスの両方を担当しました。実はほとんどのスタッフがロメオの方に付いていってしまったので、スタッフと言ってもカルラさんと僕ともう一人くらい。結果いろんなことをやらざるをえなかったんですね。未熟ながらも、ほとんどの仕事を任されて、デザインだけでなく工場とのやりとりなんかもしました。あのときの忙しさと比べれば、こなせない仕事はないとしみじみ思います。


ロメオ・ジリのアトリエで撮影された写真。左は後のアレキサンダー・マックイーン。「彼はイギリスから、僕は日本から、共にイタリア語のままならない外国人で。だから何かと一緒にいたんです」。

研壁さんが見た、イタリアのファッションデザインの魅力を教えて下さい。

イタリアの服作りって、“NNstudio”のコンセプトもそうですが、デザイン画で描くことができない服のニュアンスを大切にしているところでしょうか。良いジャケットとは何かと問われたときに、線で表現出来る次元のものではなくて、ラペルの返り具合とかジャケット丈に対する袖の太さとか体型にあった量感であったりとか。線で表す事の出来ない微妙なところにものすごくシビアでこだわる。着てみて良いよねと思える、着る人を最高に演出するツールとしての服の存在を強く感じます。そして服は仮縫いで決められていくという考えが根底にあると思います。
イタリアでは完全なスティリスタ(スタイルを創り出す職業の総称)として仕事をしていました。10年も超えてくると当然仕事にも慣れてくるんですが、客観的に自分を見ると、こなれた東洋人にしか見えないことに気付いたわけです。「東洋人のくせになにやっているんだ? お前のオリジンをだせよ!」という意識が自分に対して感じた新たなテーマでした。テーラードを中心とした西洋の洋服の基本的な空気感の表現はほどほど訓練できたと思ったので、その時点で次は日本の着物文化にあるような、しわ感、ドレープ感、整形されていないところに出る布の色気とかに向き合うタイミングだと感じましたね。他の人には真似できない東洋的な部分と西洋的な部分をミックスした服を作っていくべきだと。そして“support surface”を1999年にイタリアでスタートさせたわけです。

実際にスタートしてみてどうでしたか?

このプロジェクトに取りかかってはじめて、スティリスタとモデリスト(パターンナー)の両方の存在であることを自身に課しました。量感を表現するには立体裁断でものを作っていくしかないと。
それまでいわゆるスティリスタで、学生時代にだってしっかりとドレーピングをしたことはありませんでしたが、いざ作業を始めてみると、不思議と手が勝手に動くんですよね。それまで膨大な仮縫いを見て来ていましたから、目が覚えていたんだと思います。それは後から気づいたことです。

2017SSコレクションから。ベーシックな色使い、適度な甘さのドレープやギャザー、春夏らしい軽やかさのある素材でありながらしっかりと仕立てられた服は、大人の女心をくすぐる。

お話を伺っていると、進むべき道をとても自然に明解に選択されていますね。直感が鋭いというか、常に感じて考えていて、しかも即行動しているように思います。

決して自分では元来、即行動型ではないと思っていますが、自分が心地良く感じるところに身をおいてきた様に思います。

研壁さんの足元。失礼と思いながら、どうしても目がいってしまう、手入れの行き届いたシューズ。

海外での経験豊富な研壁さんはアマチュア部門の審査員としても大切な存在です。審査の感想を聞かせください。

海外といっても国によって事情が違うと思いますし、ひとくくりには出来ないと思いますが、僕がいたイタリアと日本との比較ということでお話すると、日本のファッションデザイン教育は絵を描くことに重点が置かれていて、デザイナー=デザイン画を描く人みたいな、そういうイメージが強いと感じます。イタリアのプロの世界を垣間見てびっくりしたのは、その考えがほぼ無い事。自分は何がしたいかという意思やイメージをはっきり持って伝達できる事が重要であり、目的はあくまでもいい服を作る事であって、デザイン画はその手段にすぎないという事です。

じゃあどうやって彼らが服を作り出していくかって事ですが、すでにある物(古着)などから発想していくことが多いような気がしました。そのかわり何がダサくて、何がカッコいいことなのかといった感覚が研ぎすまされているわけです。パターンナーを始め、多くの製作スタッフへの指示能力、コミュニケーション能力。それは日本であろうが、海外であろうが重要な事です。

とはいえ、いろいろ経験して、最終的に自分が何に喜びを感じるかと聞かれたら手を動かすことなんですよね。人に指示を出し、チェックしていくだけでは仕事内容に対しての充実感が得られなくなってしまったのです。基本的に図画工作が好きなんですよね(笑)。
デザイナーは指揮者なんだけれど、僕は指揮者でありながら立派な演奏者でもありたかったんです。コンテストに応募する学生さんもそういう意識を持った人が多いと思うんですが。

コンテスト作品は1点と深く対峙して、ある程度の時間をかけて仕上げますよね。ショーピースとかオートクチュールとか、さらに言うと衣装に近い存在と思います。そこで作られたものがコンテストという枠を超えて、次元が違うところに行って最終的にビジネスにつながるようなシステムがあってもいいのかな?と思います。たとえば女優さんにレッドカーペット等のセレモニーで着てもらうとか。何か違った発展のしかたをしても良いのかもしれませんね。

立体裁断から生まれる、流れるようなドレープとギャザー。

審査で気をつけていることはありますか?

誰でも好みはあります。でも好みやジャンルを乗り越えたところで、あるレベルに達しているものはみんなが評価するんです。どんなジャンルでも、あるレベルに達していれば。この場合のレベルとは完成度です。最終審査会ではモデルが作品を着て出てきた、そのほんの数秒間に感じたことでジャッジがなされます。1点ものですから、どうしてもインパクトの強いものが目に留まりがちで賞を取ってしまうことが多いですが、できれば甲乙つけがたい完成度の高いものがそろって欲しいです。

賞をとった人=今後“いい服”を作れる人材とは限らないですし、デザイン画の段階で落ちた人でも作らせないと才能が発揮出来ない人も大勢いると思うんですよね。
私的にはデザイン画で審査しておいて「衣装的ではなくもっと“いい服”を作れ」と言うのには少し矛盾があるようにも感じますが、とはいえ“いい服”を作れる人が最終審査にもっと残ってくれたらもっといいと思います。その点がコンテストの今後の課題と思います。

最後に学生に伝えたいことはありますか?

成功、完成を支えるのはその陰にある失敗の積み重ねです。失敗の数は教訓の数でもあり、それが経験となります。そしてその全ては “挑戦” から始まります。

10月20日~12月6日まで札幌グランドホテル:グランヴィスタギャラリーにて行われる展覧会「pass:age support surfaceの世界展」。10月20日には研壁さんのトークショーも行われる。
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PROFILE

研壁宣男 Norio Surikabe

株式会社サポートサーフェス代表兼デザイナー。1988年、桑沢デザイン研究所を卒業し、翌年イタリアへ渡る。1990年から1992年まで、ロメオ・ジリの下でアシスタントデザイナーとして働く。1992年からはミラノのセレクトショップであるディエチ コルソ コモに勤務し、96年に独立。フリーのデザイナーとして日本国内での活動を開始、2007年に株式会社サポートサーフェスを設立。東京コレクションには、2006年から参加している。

official site:http://www.supportsurface.jp/

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PHOTO : Hiroyuki Takashima

TOKYO 新人デザイナーファッション大賞 アマチュア部門

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